古林 国博

1970年4月8日生まれ

岐阜県土岐市(人口約5.8万人)に生まれる。

(母、姉、私)

岐阜県南東部、JR名古屋駅から普通電車で45分ほどの、のどかな街です。
野を超え山を越えの元気いっぱいわんぱく坊主でした。
のびのび放任主義ですくすく育ちました。

延命寺保育園

一つ上の幼馴染と。小学校へ一緒に行けなくて、母に『なんで早く産まなかったんや』と泣いてくってかかったそうです…。

右から二番目のW君とはかれこれ50年来の付き合いです。

4月生まれという事もあり、頭一つ抜けてます。給食早食いナンバーワンで相撲部屋からスカウトが来ると言われていました。

土岐市立泉小学校(1977年~1983年)

アナウンサーの近藤サトさん(小・中・高と二つ上)が児童会長で「ニコニコなんでも祭り」という行事が開催されました。
委員をやらされ、たくさんの休み時間が潰されて憤慨した記憶があります。

現在、左のY君は私の主治医(通風…)、右のM君には背丈で追いつかれました。
二人とは帰省すると、スナック「スピッチ」(同級生W君の実家)に行ってます。ちなみに「スピッツ」のつもりが看板屋さんが間違えて、そのままの名前にしちゃったと最近判明。
泊りは「ゆうなぎ」(同級生Tさんの実家)。

母から事前にそこだけはやめてくれと言われていたところで写ってしまいました…。

土岐市立泉中学校(1983年~1986年)

漫画「北斗の拳」が流行、少年ジャンプの通販で買ったバーベルセットで「ラオウ」を目指してました。一番重い250㎏セットを頼んだのに150㎏セットが届き、母とケンカした記憶があります。学校の昼休みに近くの売店に少年ジャンプを買いに行って担任に見つかり、職員室に土下座でぶん殴られました。今ではあり得ないですよね・・・。

修学旅行(東京と日光)

前列左から3人目のW君とは今でも釣り仲間です。

ソフトボール投げ80mの強肩、打撃でも軟球をスタンドに放り込んでました。ただ、膝と肘の成長痛の激痛で地獄の苦しみでした。
成長は止まったはずですが、いまだに痛いです。

岐阜県立多治見北高等学校(1986年~1989年)

配達していたのは中日新聞。地元は名古屋圏で中日新聞の牙城でしたが、なぜかうちは朝日新聞でした。

入学当初、野球部に入部するも、軟式しかなかく、成長痛で地獄の苦しみだったため、1学期で退部。

有り余るエネルギーをうまく発散できず、家庭裁判所にもお世話になりました・・・。

卒業後に放浪の旅に出ることを目標に、朝は新聞配達、夜はスーパーでバイト。      

しかし、バイク事故で大腿骨骨折、半年間は松葉杖、その後も膝がなかなか曲がらず活動不能となり、放浪の旅を断念せざるを得ませんでした。

好き勝手やらせてくれていた母も見かねて、「残念な高校時代を乗り越えて浪人して京大入って今ではアメフトのスター選手」という新聞記事を見せて諭してくれました。で、じゃあ俺も京大でも行くかって冗談のような本当の話。

身の程知らずにも、京都大学、慶応大学、早稲田大学に目標を定めました。若さなのか、この根拠のない自信はどこからきたのか全くもって不思議ですが、将来何がやりたいとか、学部がどうとかまったく知らず、ただ単に知ってて良さげな大学っていうセレクションです。

今から思えば大丈夫か?って感じですが、迷える子羊状態でいろいろと彷徨っていたので、とりあえず何でもいいから目指す物が出来て非常に楽になった記憶があります。

とはいえ、現実はそんなに甘いはずもなく、中学英語からやり直しという有様で端から浪人予定でした。

幸いにも父が英語が出来たので、なんとか復活出来たと思います。父には感謝感謝です。

なお、アメフトのスター選手には就職活動でお会いしました。

「君の先輩じゃないけど会えないか?」っていきなり電話がかかってきました。

その会社とはご縁がありませんでしたが「実は○○さんの新聞記事でダークサイドから復活したんですよ!」

って、人の縁って面白いなあと思います。

代々木ゼミナール名古屋校(1989年~1990年)

私の周りはほとんどが河合塾だったので、あえて別のところを選びました。

ひたすらレンタル漫画(当時はネットが無い時代)で昼夜逆転の堕落生活の3月(アホです・・・)
から切り替えて、4月からやる気満々で京大クラスに入るも全くついて行けず、最初は最前列に陣取っていた講義もすぐに後列となり、ほんの数回で脱落して独自路線に切り替えざるを得ませんでした。

その後は、独自に試行錯誤して参考書やら問題集やらを予備校の自習室でやっていたと思います。
予備校の食堂で天ぷらそばをよく食べていた記憶があります。

第1志望は京都大学でしたが、残念ながらご縁を頂けませんでした。

受験後に「君ガタイいいね!アメフト部に是非!」って声を掛けられた記憶があります。

残念でしたが、東京に憧れもあったので、結果オーライだったかもしれません。

結果としては、なんとか慶応大学商学部にご縁を頂き入学することが出来ました。

経済学部は補欠Bでご縁を頂けず。例年Bまでは拾われるのですが、これもまた縁ですね。

逆に、大チョンボした割に補欠ってのが意外だった記憶があります。

入学後はカラー的に早稲田でしょ!って良く言われましたが、田舎では慶応より早稲田のほうが人気があったので、天邪鬼な私は慶応優先で考えていたこともあり、早稲田は出願してましたが受験しませんでした。

学費も慶応のほうがだいぶ安かったと記憶しています。

今思えば、努力不足、実力不足で反省点しかありませんが、当時は自分なりに頑張っていたと思います。

慶應義塾大学商学部(1990年~1994年)

ラオウは諦めたものの、鍛え上げてました。
今は見る影も無し・・・。


北海道マウンテンバイクの旅

元々田舎者なので都会の水に馴染めず、浮ついたサークル活動にも馴染めず、主に海と山で活動してました。体育会も検討しましたが、成長痛や骨折の後遺症のため断念しました。

北海道旅(1年時バイク、3年時マウンテンバイク)

北海道からのフェリーで到着した川崎港から下宿先への帰路、当て逃げ事故で2カ所骨折、また救急車のお世話になってしまいました。
新車のバイクVFR400Rも一瞬で廃車になってしまい・・・。母にバイクだけはやめてくれと懇願されました。

マウンテンバイク担いで富士山登頂

須走口5合目から8時間掛けて登って、30分で下山しました。

スポーツ(ウィンドサーフィン・サーフィン・スノーボード)

ウインドサーフィンは鎌倉の由比ヶ浜、サーフィンは千葉(片貝から南下、あるいは銚子方面)へ行くことが多かったです。スノーボードは仙台で初めてやって全く出来なかったのでこん畜生で始めました。まだまだ普及しておらず走りだったと思います。

蔵王に長期バイトに行きましたが、数日で捻挫してすごすごと帰ってきました・・・。
サーフィンで訪れたバリ島で日焼けし過ぎて火傷状態となり、その後の日程が悲惨でした・・・。今も残る酷いシミになってしましました・・・。

近所の銭湯でアルバイト

親父さんにかわいがって頂きました。今でも銭湯好きで、出張は必ず大浴場のあるホテルを利用します。

貧乏学生だったので、その他いろいろなアルバイトをしました。

3年生からはマーケティング専攻の非常に厳しいゼミに入り、ガッツリ勉強しました。ゼミ生のみなさんはやる気満々で非常に優秀でした。

モラトリアム希望なれど時は流れます。

実家は東海地方、大学は東京だったので、JR西日本はまったく考えてなかったのですが、
就職活動という名目でゼミがサボれるからと人事担当者と面談、あれよあれよと決まってしまいました。

行く気ないから言いたい放題だったと記憶しています。

人事担当者いわく「うちは東京もないし新幹線も強くないからこそ、不動産開発など新規事業に積極的なんだよね!」
って当時はえらく魅力的に聞こえました。かなりいい加減な就職活動だったと思いますが、バブル崩壊後で多くの会社が痛んでいたこともあり、会社選びは間違ってなかったと思いますし良いご縁を頂いたと思っています。

というか、よく入れてくれたなと・・・。東日本や東海だったらまず入れてくれなかっただろうなと・・・。
懐の深い会社です。

後に聞いたところによると、私の代は面白そうなのを採用する方針だったとか。しかし、この採用方針は失敗だったと結論付けられたそうで、翌年から方針転換されたそうです・・・正解。

なお、実は一度、人事担当者との面談をすっぽかしてます。他社(アメフトのスター選手の会社)に拘束されてしまって、携帯電話の無い時代で連絡取れず、人事担当者に待ちぼうけを喰らわせてしましました。

翌日、謝罪に伺ったところ、その時はお会いできませんでしたが、あらためて仕切り直しとなってあれよあれよでした。ご縁ってわからんもんです。

西日本旅客鉄道株式会社(JR西日本)(1994年~1999年)

旅行事業部(Tis姫路)にて団体旅行の飛込み営業に従事し、世間の荒波にもまれる。若き日の営業経験がその後の社会人としての礎となる。

抜群の営業成績をおさめた後、旅行本部団体営業課勤務を経て退社。

通りすがりのスイス人と

スイス研修グリンデルワルト

新入社員研修では神戸駅で駅員をやりました。私鉄は既に自動改札を導入していましたが、余剰人員の関係でJRにはまだ導入されておらず、改札では人の流れで目が回りました。

研修期間中にバーベルを持ち上げてギックリ腰をやらかし、新入社員でいきなり病欠した記憶があります。

本配属は旅行部門の姫路支店。主に中小企業などに「社員旅行行ってませんか?」と飛び込み営業してました。周りからはお巡りさんと揶揄されながらも、やる気満々で1日に50件~100件と飛び込みまくってました。最初に営業の本を何冊か買ってきて「10件飛び込んで5件獲得よりも100件飛び込んで6件獲得する方が偉い!」と唱える説に倣ってのことです。当然、それだけやれば結果は付いてくるもので、数字で周りをねじ伏せました。

一番心に残っている仕事は、勝手に駐大阪の米国領事館に電話して、米軍基地内のキンダーガーデン視察の了解を取り付け、短期大学の幼児教育科の研修旅行を獲得したことです。当時、米兵の不祥事が相次ぎ社会問題になっていたので十分勝算ありと睨んでのことでした。もちろん添乗員として随行し、現地のバスガイドさんに「あり得ない」ってお褒めの言葉を頂きました。

趣味と実益も兼ねて、ショップとタイアップしてスノーボードツアーを企画したりもしました。

この営業経験こそが、世間知らずで生意気な私を鍛えてくれたと思います。本当に辛く苦しい日々だったのでもう一回やれと言われてもご勘弁ですが、「若い時の苦労は買ってでもせよ」って言葉の通り、本当に良い経験だったと思います。若くしてふんぞり返るような人間にならなくて本当に良かったと思います。

働き方改革の今のご時世とは隔世の感がありますが、休日出勤当たり前で本当によく働きました。と同時によく遊びました。旅行会社の従業員向け格安モニターツアーで国内旅行も海外旅行も行きまくり、モニター荒しと呼ばれました。

仕事をすればするほど旅行事業部から離れられなくなり、希望する不動産開発事業部への異動の展望が開けず、退社を決意しました。

退社後、友人にバイクを借りて九州を一周し、行ってみたかった西表島までプチ放浪の旅に出ました。母には内緒で・・・。

良いご縁も頂いて、今も姫路の元同僚から米を送ってもらってます。たまに精米忘れて送ってくるのは勘弁して欲しいですが・・・。

5年しか在籍してませんが入社20周年の同期会にも厚かましく参加。

新入社員のとき給料安くて密かに家庭教師をしていたことがあり、教え子のご家族とは今も仲良しです。当時は小学生だった彼女が今ではアメリカでお母さんになってます。

衆議院議員秘書(1999年~2003年)

元後輩秘書だった山口晋平兵庫県議会議員と

政治にはまったく興味なかったのですが、サラリーマン時代にご縁を頂き、政治家(当初は衆議院議員候補)の秘書となりました。

当時は海外留学も検討しており、おもしろい経験が出来て留学に必要な興味深いエッセイが書けるのではないかと考えての転職だったので、はじめから腰掛け予定でした。

現職議員のため詳細は控えますが、おもしろエピソードとしては、プライベートで交通違反をやらかし免停となり、1ヶ月間、代議士に運転させて私自身は助手席に座ってました・・・。

元々腰掛けの旨は伝えてありましたが、思いのほか長く居着いてしまい、このままズルズルはまずいと退職を決意。留学するには金もないし年齢的にも厳しいしで資格でも取るかってことで元々興味のあった不動産の資格である不動産鑑定士を目指すことにしました。

不動産鑑定事務所(2003年~2012年)

一般鑑定、公的評価(地価公示、相続税路線価、固定資産税路線価等)、担保評価、競売、遺産相続係争における鑑定評価などの訴訟案件、相続税対策・減額コンサル、固定資産税減額コンサル、賃料改定コンサルなど、あらゆる類型の鑑定評価その他コンサル業務等に従事する。

鑑定実務の修行と並行して、不動産鑑定士試験の勉強をしており、まるで修行僧のような生活でした。自転車通勤中やジムのプールで泳いでるときもにも頭の中で「不動産鑑定評価基準」を念仏のように唱えていました。右から左へと瞬時の忘却力にあきれ、自分の頭の悪さを痛感しました・・・。

試験勉強したさに社長に営業活動を提案し、時間のあるときに外回りに出かけたりしていました。移動時間中に勉強しつつも、区役所などへの営業活動もしっかりやっていたので、何気にすぐに成果も上がって驚きました。

あとは試験に合格してしまえばこっちのもの、仕事で対人関係もほとんどなく、忙しいわけでもなく、仕事が楽すぎてしばらくストレスフリ-のグウタラ生活してました。

なお、毎週金曜日夜に暗記会を一緒にしていた当時の受験仲間には、今でも仕事でお世話になってます。

その後、将来を見据えて、不動産を評価するだけではなく、不動産のコンサルティングを本格的にしたいと考え、不動産には付きものの税金を取り扱う税理士資格を取得すべく公認会計士試験の勉強を開始し、再び修行僧生活をはじめました。30 代後半からの修行僧はなかなか大変でしたが、苦労の甲斐ありなんとか資格取得できました。

監査法人・税理士法人(2012~)

監査法人にて上場企業の会計監査実務、会計事務所にて主に不動産オーナーの税務実務に従事し、相続税を含む資産税案件を手掛ける。

税務に重きを置いていたので、監査法人では非常勤で会計監査に従事しました。監査法人では実務を付けて頂いてお世話になったので、今も期末監査の忙しい時期にはお手伝いしています。

会計事務所では多くの良き仲間に出会いました。仕事上では今後も協力し合って行ける仲間ですし、プライベートでも釣り仲間です。

会計事務所の現状も目の当たりにしました。会計事務所は労働集約型のビジネスモデルなので、安月給の長時間労働でいわゆるブラック企業になりがちです。これではお客様に良質なサービスを提供できません。サービスの質が悪ければ顧客満足度が低下するという負のスパイラルに陥っています。

業界の常識にとらわれることなく、顧客満足度、従業員満足度の高い事務所にしていきたいと思っています。

会計事務所の友人と。釣り人養成中!

会計事務所の友人と。釣りガール養成中!(税理士会釣り大会)

開業にあたっては、特に仕事の当てがあったわけではなく、仕事がなければ飛び込み営業でもすればなんとでもなるやろうという軽い調子でした。独り身の特権ですね。

幸いにも開業当初から良いご縁を頂いております。お客様はもちろんのこと、仕事に関わるすべての方々とのご縁を大切にしていきたいと思っております。

家族

恥ずかしながら独身。一番の親不孝ですね。
父は他界しました。
母は父の他界後、実家で一人暮らしでしたが、最近施設で暮らし始めました。毎日電話で話していましたが、母の耳が遠くなり、今は1日朝夕2回メールのやりとりをしています。
コロナ前は月1回は会いに帰省していましたが、コロナ中は3年帰省できず、コロナ後の帰省は、数か月に1回の頻度です。
いっぱい迷惑もかけたし、いつまでも母を大切にしたいと思っています。

趣味

・釣り
釣り歴はまだ数年の下手の横好きです。
小学校の同級生マスクドココイチがいる横須賀へ行くことになり、横須賀って結構遠いなってことで、釣りでもするか!ってのがきっかけです。海のない岐阜県出身ですが、小さい頃に川やら池やらへよく釣りに行っていたので、童心に帰ってハマってしまいました。

小学校の同級生と。真ん中のなべちゃんも独身・・・。

千葉や神奈川、帰省時には愛知の海に船釣りに行っています。
先日、釣り帰りの首都高速道路で居眠り運転事故。物損のみで済んで幸い、衰えを自覚し気が引き締まりました。

スノーボード
(写真はモニター荒しの頃:北海道サホロリゾートスキー場スタッフと)

昔はガンガン滑ってましたが、今では少し滑ってビール飲んじゃいます。温泉でゆっくりもしちゃいます。

座右の銘

一期一会

放浪の旅
昔出来なかった放浪の旅にいつか出たいと思ってます。

持病

痛風、高血圧、逆流性食道炎

左足親指は小さい頃の火傷の跡。小さい頃から暴れん坊で動き回ってストーブで火傷したそうですが、記憶に無し。

写真ではわかりにくいですが、ドカンと腫れてます・・・。
特急電車で毎週釣りに行っていた時期があり、ボウズ残念賞のあじの干物を獲得しまくり冷凍庫いっぱい、処理するために毎日食べてたのがまずかったんじゃないかと・・・。
この写真を小学校の同級生で医師のY君に送ったら「はい、通風!」って返信が・・・。

尊敬する人

矢吹ジョー
「真っ白な灰」というところはラオウの「我が人生に一片の悔いなし」と同じです。悔いだらけですが・・・。